どっとこうMOTTO

電子書籍『After』(全2巻),BookLive!(http://booklive.jp/product/index/title_id/116980/vol_no/001),紀伊國屋書店(https://www.kinokuniya.co.jp/f/dsg-08-EK-0012917)などで好評発売中。

「なるんだ!ボクがホントの主人公に!」を読み解く

今年ももうすぐ終わるということで,今年をちょっと振り返ってみてみた。いろいろあったんだけど,心に響いたフレーズをひとつ紹介したい。

それがこのタイトルにもある「なるんだ!ボクがホントの主人公に!」である。これは『デジモンユニバース アプリモンスターズ』(※1)の主人公,新海ハルの発言である。本編を見る前にチェックしたキャラクター紹介ページ(※2)にも書かれており,第一印象では主人公に主人公になると言わせるとはどういうことか,と思ったものである(※3)。でも,そんなことがここで紹介した理由ではない。ちょっと読み解いてみたい。


■主役キャラと脇役キャラ

この発言の背景には,他人と比較して自分が脇役っぽい(と思い込んでいる)ので,その脇役キャラからの脱出して主人公キャラになりたい,ということがある。まず,他人と比較してイケてるイケてないの評価をすることのは不幸になる考え方。しかも,サンプルがおそらく親しい友人(あえて誤変換)のみだろうから,コレはよりイケてない。

そしてその発言があった時の「主人公」「脇役」の定義ってなんだろうか?結局彼は何が不満だったのだろうか?言わんとしていることはわからなくはない。でも,僕にはうまく言い表せないんだけど,当初は,「注目を集める存在」,ということのように感じられた。だから脇役はその反対の意味で「どうでもよい存在」「注目されない存在」という意味なのだろう。

余談ながら,頻繁に登場する彼の恥ずかしいエピソード「10歳までおねしょしていた」という点について,なぜそんなことをしていたのかというと,おねしょをすることで,結果として自分にもっと構ってもらえるというメリットがあるという説を聞いたことがある(※4)。この問題を解決する方法として合致する話でなかなか興味深い。


■ホントじゃない主人公との決別

もうひとつ気になったのが「ホントの」という表現。これは暗にニセモノがあることを示している。ニセモノとはなんだったのだろう?これは彼の趣味の読書で,現実世界で満たされない主人公キャラへの想いを物語を読むことで代用し,その中で主人公気分になっていたということとの対比になっているのだろう。傍から見るとなかなか寂しく,クラスメイトに「本を読んでいる時は楽しそう」(=そうでないときは?)とまで言われているのだから想像すると結構痛い。 ま,僕だって,前回書いた「過去には自分に似せたキャラクターを創ったこともあった」なんてこともあったから,人のことは全く言える身分ではありません。

ここでちょっと面白いのが,それを今度はオーディエンスである僕らが彼に共感し,追体験しようとすると,この「ホントの」という言葉で強制的に自分の現実世界に戻されることになる。彼が読書で得ていたような代理経験では許されないのである。現実世界を変えたくなるのである。そういう意味では厳しい作品とも言えるし,優しい作品とも言える(販促的も都合がいい(笑))。


■主人公になるには?

では,どうやって主人公になるのだろう?作中で彼が行っているのは「主人公になる」と決意して行動するだけである。ARの世界がなんとかしてくれるものではない。アプモンたちとの冒険の旅そのものが主人公にしてくれるわけでもない。

ここで最初の想いと少しズレているのに気づく。「主人公になる」と決意するだけでは「注目を集める存在になる」にはならないだろう。でも,このズレている方が定義に敵っている気がしている。当初の定義であれば,主人公がいて脇役がいることになるのだけれど,こちらの定義になると,みんながみんなの人生を主体的に歩んでいくことになり,全員が主人公であってもおかしいことは全く無い。そして他人と比較することに意味はない。


■自分の人生を選択する

さらに突っ込むと,「主人公になる」とはどういうことだろうか?どう行動するのが主人公なのだろうか?自分から発信しないとクラスメイトは振り向いてくれない。だから受け身ではなく主体的になる,首を突っ込んでいく,それが主人公になるってことなのだろう。これは僕が日頃自分に対して思っていた解釈(問題意識)を彼に反映させているから間違っているかもしれない。つまり,心に響いた理由は他でもない,ここに自分が再現されるという「構造」を見つけてしまった。しかも結構精度が高い。

とここまで書いておいて,ちょうどうまく言い表された一文があったので最後に紹介したい。
「仲間とともに現実と向き合い、自分の人生の選択をしていく新感覚バディストーリー。」
なんてことない,公式ホームページの作品紹介(※5)の最後に書かれている内容そのまま。あれこれ考えたのは何だったんだろう(笑)。

そして「自分の人生の選択をしていく 」とは,どういうことなのか。今までだって人生の選択をしていたのではないか?今までの生き方と何が変わるのか?自分としてのこの答えが腑に落ちていない。この番組の答えを鵜呑みにする気はないけど,参考にしたい。彼の約3倍の年である僕が中1と同じ悩みを持つのはどうかと思うものの,気づくのに遅すぎることはないわけで,ただただ期待しています。


※1 デジモンシリーズについての知識はないので,シリーズについて当たり前の事項を指摘していたらごめんなさい。むしろ作品全体の個人的な印象としては『ネットゴーストPiPoPa』のAI版かと思った。初回を見てよりその印象が深くなった。
※2 http://www.toei-anim.co.jp/tv/appmon/character/
※3 別の回では髪の毛が緑色でアニメキャラらしいということでイマイチな評価を受けていた。いや,アニメキャラ以外の何物でもないですから,と思わずTVに突っ込んでしまった。
※4 その話を改めて聞いたのは100分de名著(10月の再放送)。出演していた伊集院光さんも10歳までおねしょをしていたエピソードが披露されていた。http://www.nhk.or.jp/meicho/famousbook/51_adler/index.html
※5 http://www.toei-anim.co.jp/tv/appmon/introduction/

キャラクターから構造へ

このブログを久しぶりに書くにあたって,どう書こうかと改めて振り返ってみた。ブログのキャッチーコピーとしては「二川項から見る世界」や「キャラクターは人生の道しるべです」ということを書いた。「二川項から見る世界」というのはまぁ,そうなんだけど。僕から見る世界って他の人から見る世界と何が違うんだろうね。僕が特別にユニークなんじゃなくて,誰ひとりとして同じわけじゃないからね。
 
もうひとつの「キャラクターは人生の道しるべです」については,キャラクターの知見を人生に活かしたい,ということ。研究テーマが自分とそのキャラクターの性格的類似性の関係が自分に与える影響だったから,つい,性格という意味でのキャラクターに注目してしまう。ただ結局キャラクターと接してもうまく分析できず,生かせずじまい…とちょっと悲しい。振り返る中で,このアプローチは誤解を招く表現だな,と気づいた。というよりちょっと勘違いしていた部分もあった。
 
キャラクターを活かすとは,服を着替えるようにそのキャラクターの力を借りるということ。とはいえ,着たい服があれば着たくない服もある。もっと言えば,そもそも着られない服かもしれない。そうなってくると,まず服で言うサイズであろうキャラクターとの性格的な類似性というのが重要になってくる。自分と合うかどうか,ということだ。
 
そうなってくると,キャラクターとの性格的な類似性は,似てるに越したことはないんだろうけど,全く同じなんていうことはあり得ないわけで, どこまで似ていれば良いのだろうか。十分な条件を満たすキャラクターは現れるのだろうか?多分,それはかなり稀だろう。だから過去には自分に似せたキャラクターを創ったこともあった(※1)。それが僕の作品のモチベーションだったことさえもあった。
 
※1 ただし,この手法は自分の枠を超えた展開ができない,成長の度合いが低いというデメリットも併せ持つ。他人だからこそ発見できるものもある。
 
キャラクターとの類似性を無視した解決策は失敗しやすい。それは間違いない。だけど,自分と瓜二つなキャラクターがいない中で,そのキャラクターの細かい特徴にこだわることにどれだけの意味があるのだろうか。例えば身長の高い低いに一喜一憂することにそれだけの意味があるのだろうか?意味は無いとわかっていても,キャラクターとの類似性が重要なのであれば,そこに注目せざるを得ない。
 
そして今までの話で忘れられているのがどんな服を着たいか,「どうありたいか」というテイスト,方向性の話である。仮に性格の類似の条件を満たしたキャラクターがいたとしても,そのキャラクターの方向性が異なっていればこれはまた話にならない。性格との差異はまだ調整の可能性がある(調整が不要であることはまずない)が,方向性の差異は修正しようがない。そういう意味で性格なんかよりも方向性の方が断然重要なのである。
 
さらに今までに出ていなかった話でもうひとつ加えておきたいのが「環境」の話である。先の服の話であれば,沖縄と北海道では年間を通じて同じ服を着ることはできないっていうこと。仮に性格や方向性を満たしても,自分には得られない資源を活用した解決策では実現できないのである。
 
僕は今まで性格にこだわりすぎていた,と反省している。性格は必要条件に過ぎず,方向性と環境のほうがむしろ十分条件であるような気がしてならない。だから言い直したい。重要なのは性格との類似性ではなく,構造なのだと。もちろん,構造とは環境と方向性と性格から成り立つ。キャラクターが併せ持つのは性格に加えて,環境と方向性も持っているということであり,はじめのキャッチコピーに誤りがあるわけではない。キャラクターの概念が広がった,ということ。
 
どんなキャラクターであっても,自分の行動に落とし込むためには,キャラクターから自分への翻訳が必要なのである。性格そして環境は翻訳の難易度にかかわってくる。ここは無理をするところではない。易しいに越したことはないわけで,性格の重要性は失われていない。性格だけでは不十分ということだ。
 
というわけで,自分の今の状況を構造と合致する作品との出会いを探している。構造,っていう言い方をするずっと前,以前更新していたときからずっと。別に小説でもドラマでもいいんだけど,よく多用しているのはアニメ。アニメなのは構造のバラエティーが豊かでかつ,視聴がお手軽だからである。ドラマは相対的にキャラクターの幅が狭く,1回60分のドラマは1回30分のアニメよりも視聴が大変,ということに過ぎない。そして,そういう見方ばかりしているわけではないのは補足させてほしい。

どっとこう17周年

昨日になってしまったけど,どっとこうが生まれて17周年目となりました。しばらく遠ざかっていた時期もあるし,見てお分かりのとおりそんな感じです。今後,二川項としての活動をどうしようかと考えている間にあっという間に,というのが正直なところ。

ほかのソーシャルメディアの使い方との整理もできていないし,まだ結論は出し切れていない。だけど,このどっとこぶろぐも細いながらも続けたい。更新を一日に数回は難しくても,年に1回以上はね(笑)。◯周年というのは再起動するには良いタイミングかと。

物語を紡ぐように日本を,世界を見つめていければと思う。

とだけ書いておこう。三度寝にならないように。

おはよう,どっとこぶろぐ

おはようございます。
どっとこぶろぐ再開です。

ブログを休止してから早7年半。
明けない夜はありません。

細く長く続けていきたいと思ってますので,
これからも引き続きよろしくお願いします。

おやすみ,どっとこぶろぐ

「どっとこぶろぐ」を読んでいただきありがとうございます.
突然ではありますが,2003年から続いてまいりました
この「どっとこぶろぐ」の更新を休止することにしました.


最近の「どっとこぶろぐ」は,はっきり言ってしまえば,
自分のためだけに書いているような気がしてならないのです.
少なくとも,あなたに向かって書いていない.
これを読んであなたにとって何か役に立つとは正直,思えない.


自分のためと言いながらも,自分にしか分からないような
極端なネタを出すこともできず,非常に中途半端な印象を抱いてしまう*1
だったら,いっそのこと,公開しない方が良いのではないか,
そう思うに至りました.


また,作品紹介をするときには特に,時間をかけて原稿を書いています.
時には2週間経っても書き終わらないこともあります.
このようなスタイルもまた,ブログには向いていません.
二川項にはブログは似合わないのです.少なくとも,今のコンセプトでは.


そして,僕が購読しているメールマガジンの一つに,
「天命の暗号*2」があります.
毎月/毎週,目標を教えてくれるメールマガジンです.


今週の目標は「即断」.


僕の思いに反して,このブログを楽しみにしていたとしたら,
それは大変申し訳なく思っています.ですが,お許しください.


本当はここでずばっと終わりにしたいのですが,
あと1回だけ,現在休止中の本家サイト「どっとこう」と私の
今後について話をさせてください.
本家をどうするかも決めていますが,発表まで少し時間が必要なのです.

*1:例えば,「好きな作品は語りにくい」ってこと. id:futagawakou:20070831

*2:id:futagawakou:20061126

おとぎ銃士 赤ずきん 〜魔女の忘れもの〜

おとぎ銃士 赤ずきん」の小説版第2弾.
今回は前回*1と違って,良くも悪く(?)も
視座の不安定さは感じられない.


とはいえ,う〜ん.
登場人物が完全に二手に分かれる構成はちょっと….
なんとなく散漫で分断された印象を持ってしまう.


戦闘美少女とかいろいろあるんだろうけれど,
そしてこの本の前提を全て崩してしまうんだけど,
冒険なんかしなくて良いから.


鈴風家とか学校で,はちゃめちゃをしている方が
個人的には好きなんだけどなあ.
まあ,掛け値なしで好みの問題なんだけどね.



*1:id:futagawakou:20061103

生き延びるためのラカン


語りが学術書っぽくない口語調だし,
引用の元ネタが書かれていない場合が多いんだけど,
さりげなく索引や著書リストを用意しているのはありがたい.
教科書・入門書としての使い勝手はなかなか.


ただ,ラカンの知識のない僕が,
内容の正確さについて論じたりするのは止めておく.そもそもできない.
それでもひじょ〜に参考になる点が多かった.


さて,この本の扉には,

「心の闇」を詮索するヒマがあったらラカンを読め!そうすれば世界の見方が変わってくる!

って書いてある.これは本当だなあ,と思ってしまった.
以下、どっとこう総見*1でのあれこれをばっさり斬ってもらいましょう.


Q.どうして「好きになった作品は語りにくい」*2のですか?


A.

一般的に、男性は自分の立ち位置をしっかり定めてからでないと、何事も享楽できない。*3


【二川項のコメント】
作品を語る前提としての,(「日常」の)自分の立ち位置を
説明するのは難しいよね,ってことなのか.


立ち位置が決まらないと,玉乗りしているみたいで,
どうも落ち着かない感覚になってしまう.


Q.『おおきく振りかぶって*4についてなんかいろいろ書いてあったけど,
結局はどういうことだったんですか?


A.

報われない、トラウマ的環境にある主人公が、同じく報われない他者を自己犠牲によって救済することで、最終的に自分も報われる。象徴界を介して演じられる「救済」の反復が、それこそ反復によって色褪せてしまわないのは、僕たち(あるいは個人)が、いつでも自分のことを「努力が報われない不遇な主人公」としてイメージすることができるかもしれない。*5


【二川項のコメント】
最初からこれを引用すれば良かったと思うくらい*6
なんか無茶苦茶恥ずかしい.


ついでに,主役級の2人について言及していたコメント.
あれも,結局2人に自分の感情が投影されています*7
って告白してるようなもんだよね.


Q.録画したのに見ない言い訳として,「見るのが怖い」*8って書いてあったんですけど,
そんなことはあるのですか?


A.

鏡像に自己イメージを含めて投影し、同一化を試み、しかし同一化が進めば進むほど、自己の支配権、所有権を鏡像に奪われてしまうという不安や被害感も高まっていく.*9


【二川項のコメント】
「主人と奴隷の弁証法」の説明より.
参考にする登場人物が先に成功してしまうかと思うと,不安になるのは,事実.
話の最後で彼女ができるとイマイチ評価が高くならないというのは,
この変形バージョンだろう.


Q.「どっとこう総見」のアプローチについてどう思いますか?


A.

「自己」イメージに基づく「共感」なんて、あまりあてにならないんだ。それは他人の中に自分自身のイメージを発見するだけの、ナルシシックな営みなんだから。


【二川項のコメント】
「どっとこう総見」は,(いろいろ条件はあるけど)キャラクターを使って,
人生のトレーニングができないだろうか,ということを考えている.
自分一人で進めていくという点では,あのナルシスト*10の匂いがすると
言われているジムのトレーニングに似ているのかもしれない.


でも,「どっとこう総見」で一番気をつけたいと思っているのは,
参考にする登場人物を見て,満足してしまうこと.


そして,満足できないようにする,つまり
自分のモノにするためのトリガーになるのが
「参考にする他者」との「差異」ではないかと思う*11


「どっとこう総見」自体,まだまとまっていないに等しい.
まだまだ考える余地はいろいろありそう.


…「どっとこう総見」を知らない人にはさっぱり分からないような
内容でごめんなさい.この本の魅力について,ひと言で言えば,再度引用するけど,

「心の闇」を詮索するヒマがあったらラカンを読め!そうすれば世界の見方が変わってくる!

ってことだと思う.


お勧め度:★★★★★


生き延びるためのラカン (木星叢書)

生き延びるためのラカン (木星叢書)

*1:左の「カテゴリ別一覧」から「どっとこう総見」を選択すると,大体の傾向がわかる…はず

*2:id:futagawakou:20070818

*3:p162より引用

*4:id:futagawakou:20070830

*5:p105より引用

*6:さすがスポーツ心理学.(違うか?)あ,でも単行本の3巻の裏カバーに似た表記があるか.

*7:「2人に同一化しています」ではないことに注意.

*8:id:futagawakou:20061229

*9:p95より引用

*10:引用は省略するけど,本文にナルシシズムについての解説がある.

*11:本文中の表現で言えば,「父」「第三者」にあたるようなものではないだろうか.ちなみに,「どっとこう総見」では,同じ人間(登場人物)は一人として存在していない(ただし,オンラインゲームなどで自分の分身を自分で作った場合を除く),という発想を根底に持っている.