どっとこうMOTTO

電子書籍『After』(全2巻),BookLive!(http://booklive.jp/product/index/title_id/116980/vol_no/001),紀伊國屋書店(https://www.kinokuniya.co.jp/f/dsg-08-EK-0012917)などで好評発売中。

ネトウヨを減らしたければ野党を批判しなさい

今回のタイトルは一見論理矛盾だし,何かを煽るようなタイトルになっているけれど,順を追って説明したい。「ネトウヨ」の定義はいろいろあるけれど*1,「ネット」右翼であることは間違いないだろう。

 

 ただ,あまりポジティブな意味では使われないことが多い。ここでは,それが問題だという文脈に則って,「ネトウヨ」を減らしていく方法を考えたい。まずは,言論空間がネットの世界が拡がっているのは別に珍しいことではない。(今で言う)ネトウヨ的論調だって同じであろう。しかし,同時に考えたいのは,「ネトウヨ」がなぜ目立つのか,あるいは「ネトサヨ」が出てこなかったのはなぜだろうかということである。

 

固定された日本の政治と言論空間

 ネトウヨたちがネット空間を必要としたのは,新聞や雑誌,テレビのマスコミ等といった言論空間が既存の場所に足りなかった,だからネット空間を新たなフロンティアとして捉えて拡がったからだろう。ネトウヨでない人たちだって,ネット空間に展開しているだろうけれど,ネトウヨが目立ってしまう理由があるとすれば,既存の言論空間に比べると存在感があるからだろう。ということは,「ネトウヨ」的な言論空間が既存の(非ネットの)言論空間に足りていないということである。

 

 それはなぜかと言えば,日本の政権が自民党という,左翼的ではない政権が続いている*2からである。そうであれば,政権,つまり権力の監視を目的とするジャーナリズムが左翼的に固定されてしまったことに何の不思議もない。

 

 特に左翼的な人から見れば,今の安倍首相は自民党のなかでもより右翼的であると認識している人が多い。ということはより左翼的な論調が多くなるなるのは当然だろう。そのタイミングとネトウヨ的論調が既存の言論空間から消えて,ネットに展開していったのも偶然ではないだろう。最初に書いたとおり,これからネトウヨを減らしていくために必要になるのは,ネトウヨ的な言論空間を既存の言論空間に持ってくることである。どうやって持ってくるか,タイトルにあるとおり,野党を批判する反野党のジャーナリズムを育てることが一番なのではないかと思っている。

 

鍛えられれば強くなる

 安倍政権へは,第1次政権の時を含めて,あれこれ批判されてきた。その批判を乗り越えて今の安倍政権があるわけで,相当鍛えられている。それに比べていわゆる反アベ勢力への批判は弱いように感じる。共感している,あるいは守ってあげたいと思っているのかもしれないけれど,その親切心がかえって弱体化を促しているような気がしてならない。批判されて,指摘されて育つ部分もある。今の野党にはフィードバックが足りていないのではないか。


 安倍政権を批判している人が言うところの「アベ一強」は皮肉なことに安倍政権を批判している人が作っているようにさえ見える。タイトルにある野党を批判しなさいというのは,つまり野党を鍛えなさい,ということに他ならない。鍛えられた野党で政権交代が起これば,権力の監視の方向性も変わる。そうなると(現在の)反野党のジャーナリズムが必要になってくる。政権交代のあるアメリカであってもまだまだなので決して簡単ではないだろう*3


 とはいえ,先の野党と同じく,言論空間において適切な批判が為されて反野党のジャーナリズムが鍛えられて,ネトウヨ的な論調の一部でも既存の言論空間に吸収されれば,わざわざネットで論じていこうとするモチベーションも低くなり,トレンドとしてのネトウヨは弱くなるだろう*4

 

無くすのではなく,薄める

 さて,ここまで論じてきて考えたいのが新潮45の件の問題である。ここで明らかになったのはあのような批判しかできない,あの程度の批判しかできない反野党のジャーナリズムのレベルの低さなのではないだろうか。


 ということは,すべきなのは新潮45に掲載された内容への適切な批判であろう。出版社も含めて一部で展開している新潮45の廃刊を求めることでは決してないだろう*5。もしこれで廃刊になったら,また言論空間が狭くなり,ネットに吸い寄せられネトウヨを盛り上がらせることにしかならないだろう。

 

 ネットでの言論(ヘイトスピーチ)規制する動きもあるけれど,規制したところでどこかに新たな表現先を求め続けるだけだろう。閉じ込めるのではなく,薄めていく。排斥ではなく,賛成はしなくても,認めあっていくということ。逆説的に見えるかもしれないけれどそれが一番近道なのではないだろうか。

*1:例えば,Wikipediaでも多様な定義が紹介されている https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8D%E3%83%83%E3%83%88%E5%8F%B3%E7%BF%BC

*2:自民党が左翼的であるという意見はあるけれど,野党よりはという意味で。もちろん自民党の支持者がすべてネトウヨでもないだろう

*3:日本語で紹介されていないだけかもしれないけれど,現在のトランプ大統領は本論の相似形だろう

*4:もちろん,過激な右翼的意見は残るだろうけれど,それは過激な左翼的意見と同程度だろう

*5:形式な観点から言えば,これは少数派意見に対する議論の接し方の問題でもある。つまり少数派であれば弾圧してもよいのか,ということである

僕とゲーム

 いつもは自分自身について語ることはあまりないんだけど,今回はちょっと語ってみたい。 

 

二川項小史

 僕は1980年生まれ。小学生に入った頃にファミコンと出会う。ただ,お小遣いもなかった。新しいゲームは誕生日やクリスマスプレゼントに買ってもらうのがやっと。ゲームのし過ぎで親から怒られることもしばしば。麻雀のルールを教えてくれたのもゲームだったけど,「ドラゴンクエスト」シリーズが好きだった。

 

 中学校に入った頃にスーパーファミコンと出会う。お小遣いはあったが,大した金額ではなかったのでゲームに充てることはなかった。はじめて自分の小遣いの中で買ったゲームは中古ゲームの『ファイナルファンタジー6』だった。高校に入ってすぐの頃だった。そのままの流れでプレイステーションと出会い,『ファイナルファンタジー7』を買った。

 

 小学四年生の頃,物語をつくることに目覚める。中学校に入学して授業でゲームっぽいもの(多分LOGOだったかな)を作って楽しかったのを記憶している。それとは別に,TRPGもどきのようなものを自分で作ったりもした。友達からRPGツクールを借りてゲームを作った。そしてのめり込んだ。高校のときにはRPGツクールで作ったゲームでコンテストに応募したこともあった。

 

 高校卒業後の進路では,ゲームに携わりたいと思った。専門学校という手もあったが,大学でゲームの研究をしたいと思った。とはいえ,当時はまだゲーム学科みたいなものは無かった。しかも,いわゆる理系ではなく文系的なアプローチで学びたいと思った。全国の大学を調べて,結局某大学の文系の情報系の学科に入った。

 

 大学ではパソコン,そしてPCゲームと初めて出会った。この頃,日本ファルコムとkeyに出会った。自作ゲーム(インディーズゲーム)にも出会った。ゲームを題材にして授業のレポートを書いたこともあった。それどころかゲームには「私のゲーム(自分の判断が求められているゲーム)」「あなたのゲーム(自分を登場人物に投影し,察するゲーム)*1」「彼・彼女のゲーム(自分に関係なく,登場人物を察するゲーム)」の3種類があることを踏まえた上で,インディーズのJRPGをプレイさせてその前後で性格に変化があるかどうか,というテーマで卒論を書いた。

 

 だがしかし,卒業後はゲーム制作には携わることなく現在に至る。そしてゼロ年代まではゲームをいくつかプレイしていたが,その後位置情報を活用したゲームを楽しんだことを除いて,そんなに情熱は注くことはなかった。コミュニケーション主体のゲームもソシャゲにも希望を感じなかった。MMORPGをすることも無かった。

 

僕の望んでいた方向性

 ざっくり言うとこんな感じである。こんな僕が最近読んだ本がある。「ゲンロン8 ゲームの時代」である。今までの流れがキレイに説明されていて驚いた。いくつも驚きがあったんだけど,そのなかから2点紹介したい。

 

 ひとつ目は,進路でなぜ「文系」を選んだのか。単純にゲーム業界に就きたいのであれば,専門学校や理系のコンピュータ系の学科を選ぶのが勝ち筋だったのだろう。今でもそう思う。でも,あえてそうはしなかった。

 

 それで自分は何をしたかったのだろうかと言えば,小説と映画と演劇では表現方法が違うように,そこにゲームというメディアが持つ物語の可能性を探求したかったのだろう。対談で語られていたまんまの流れである。

 

 そんなにポジティブに語られていないようだったけど,当時の僕にはJRPGの可能性を感じていた。だからこそ,システム的な「理系」ではなく,出版的な「文系」を選んだのだろう。そのなんとなくの判断の説明がついたことが,僕にはとても驚きで,いろいろな思い出が湧き出してきてわくわくした。

 

 まぁ,理系の中で文系的なアプローチを取るのが良かったのではないかと思うところもあるんだけど,それは当時の僕には思いが至らなかった。あ,大学時代もピンポイントの後悔はいくつもあったけど,総じては後悔してません。念のため。

 

今のゲームをしない理由

 もうひとつの驚きが,最近ゲームがご無沙汰になった理由。もちろん,仕事が忙しかったりして時間がないのも理由のひとつ。だけど,それだけでは説明がつかない。この対談はそこをしっかり説明してくれた。それが対談の最後に紹介されている「ソシャゲはパチンコである」という点。

 

 僕が好きだった物語性はそこにはなく,似たような美少女キャラで推して,金で能力が決まる。僕はパチンコをしないのもあるんだけど,そこに魅力を感じることはない。そんなこともあってちょっと離れてしまった。そしてこのサイトの方向性も失われてしまった(笑)

 

ゲームに希望は持てるか

 興奮したその一方で残念にも思った点もあった。登場する研究家が狭いこと。決して編集者に忖度したわけではないだろう。正しい批評によって育つのに,そこが足りていない。もっと多様な批評家がでてきてほしい。

 

 そして,今後のゲームがどうなっていくかということ。別に海外礼賛をしているわけではないんだろうけれど,結果的にそうなっている。これからの日本のゲームはどうなっていくのだろう。個人的には,海外と同じことをする必要はないと思っている。ニッチかもしれないけれど,海外にはないタイプのゲームができていくのを望みたい。そして物語のゲームがあってもいいじゃないかとも思う。

 

 どちらにしても僕はゲームの可能性を感じることができたのは,1980年前後生まれだったということを改めてわかった。そのことは偶然であり,幸せであった。できれば他の世代でもそう思う人が増えてほしいと願う。

*1:この本に収録されている論考がまた刺激的で,この分類についても改めて語りたくなってくる。この話は長くなりそうなのでまた改めて。

見過ごしてるものに価値があるかも

僕はどうも長いこと集中できない気がしている。他のことが気になったり眠たくなったりすることも多い。広く視ようとしていても集中しているとつい狭くなって,見逃すことが多い。だから集中力が欲しいと思っていたところで手にとったのがこの本。

 

集中力では機械には勝てない

読んでみてちょっと意外だった。「「集中」とはすなわち、人間に機械のようになれという意味(p6)」という指摘である。人工知能に仕事を奪われるという説もある中で(実際にそうなるかどうかはさておき),これからは集中ではないスキル─すなわち分散思考─が必要になってくるのだろう。

 

ちょっと勘違いしないでほしいのは,本のタイトルに「集中力はいらない」とあるけれど,とは言うものの,ちょっとこれは言い過ぎな感じがあって,集中力の利点を認めた上で,集中力の副作用とその代替案としての分散思考を勧めている本なのだ。

 

興味深く,確かになんとなく実感とも合う指摘も多い。よく物語の中に出てくる仙人とか,飄々としているのになんか簡単に物事を解決していくようなキャラクターがいるけれど,彼らは単純に天才肌なのではなく,余裕があるからいろいろ検討できて一手を思いつける分散思考の持ち主なのだろう。

 

時給が集中を要求する

いろいろなところで日々生産性向上とか「集中」を説いているけれど,それで新しいものが出てくるかというのは謎である。新しい成功には失敗が必要なのだから集中だけではうまくいかないような気がしている。とは言うものの,担当している仕事にあわせて、どちらが求められているのか考えながら仕事をしていくことになるだろう。

 

集中することで時間を換金する(決められた時間集中していれば良い)のが今までの働き方だったけれど,これからはそうでない働き方も出てくるのだろう。いわゆる「高度プロフェッショナル制度」はその延長線上なのだろう(改善すべき点はあるかもしれないけれど)。四六時中仕事に支配されるのは勘弁。とはいえ,仕事と仕事以外の境界線が揺らいでくるようになるだろうし,無理して分ける必要もなくなるのかもしれない。

 

視野が狭くなっている社会

さらになるほど,と思うのが,個人のワークスタイルだけにとどまらず,社会全体が集中思考に陥っているのではないかと指摘しているところ。最後には戦争も集中思考の結果,とまで言ってしまうほど。でも,個人的には納得なのである。ちょっと何点か引用させてほしい。

集中思考をしている人は、自分の好きなものを決めつけ、そればかりを探しているから、どんどん見える範囲が狭くなっていく(pp127-128)

自己主張というのは、自分の意見を述べることだ。自分の願望を述べることではない。何が正しいと考えるのか、というのが意見である(p202)

すべてが、どっちつかずであり、良いところも悪いところもある。一面だけを見ず、すぐに意見を固めない、という姿勢が大切である(p213)

 

著者の森さんも指摘している通り,集中は社会の問題にもなっているとつくづく感じる。正義や原理,あるべき論は大切かもしれないけれど,それがちょっと強くなりすぎてしまっていて,その歪が大きくなって別の問題を引き起こしていることが多いような気がする。

 

はじめに僕のことを書いた。集中が得意ではないのは,結局は集中の窮屈さが得意ではないと感じているからだろうと感じている。集中のしすぎででやつれてしまう前に,集中していている人にこそ,次の時代への転換するために,読む価値のある一冊だと思う。

 

最後に。今回,久しぶりに読書した感想を書こうと思った。その第1弾がこの本なんだけど,「読書はインプットですが、思考はアウトプット(p82)」とか「加工しないでアウトプットする人は、ただ情報に反応しているだけ(p83)」とか言われてしまうと我が身はどうなのだろうかと胸に手を当てつつ,それでも書いてみたのだけど…,どうだろう?

 

集中力はいらない (SB新書)

集中力はいらない (SB新書)

 

 

男女平等を考えるべき意外なポイント

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最近,でもないけど,男女平等(便宜的にこう言っているだけで別に女男平等でも良いと思う)の話を見たり聞いたりすることがあるんだけど,ちょっとした違和感がある。

と言っても,男女平等に反対しているわけではない。むしろ,個人的には男女平等を推し進めてほしいと思っている。そして,女性はとても優秀。同じ条件であれば,男性よりも女性の方が上位のような気がする。僕の後輩が女性だったけど,彼女もご多分に漏れず。彼女に負けないようにするにはどうすればよいか考えていたものだ。男性よりも女性の方が人数が多い年もあったりする。そしてそれでも不都合なことはあまり起きていない。

押し出される男性はどこに行けばよいのか?

さて,その違和感の正体とはなんだろうかと言うと,ずばり言ってしまえば,「押し出される男性はどこに行けばよいのか?」について論じられていないことである*1

女性の比率が上がるということは,裏返せば男性の比率が下がるということだ。もっと言えば,全体のパイが変わらない限りは,女性の人数が増え,男性の人数が下がるということでもある。その下がる男性の人数はどこに行くのだろうか?

政治家のように,都度選挙で総入れ替えがあるようなものであれば,女性の政治家希望者を集められればそれで済む話なのだろう。しかし,そればっかりでもない。

女性と入れ替わりに専業主夫になるというのはひとつの案かもしれない。だけど,それが男女平等と言っている多くの論者が望んでいることなのだろうか?そこを考えてあげないと,新規に増える分を除けば,現在の文化上のコンテクストをふまえると,それは恥ずべきことであると考える男性は多く,自ら身を引くことは考えにくい。

あるべき男女比率は?

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真に男女平等を求めるのであれば,答えは,女性の人数が多いところに男性が移動すれば良いということになる。でも,それは世の中一般的に望まれていることなのだろうか。例えば男性の保育士に子どもを預けたいかどうか。男女平等を求めるのであれば,そういうところも変えていかないと流動しない。

こちらも裏返せば女性の比率が高いところもあるわけで,そこには男性を入れなければ,男女格差は縮まらない。あるいはそれを適材適所というような言葉を当てて,ある程度の男女差を認めるというのもひとつの意見ではある。どちらの立場に立つにせよ,男女の比率はどうあるべきか,ある程度細かいところまで考える必要がある。女性を増やすと言っても,人口以上には増やせないわけだから。

新しい時代の「普通」

もっとも,今まで条件を付けていた「働き口が増えない限り」という条件を疑えれば解決できるかもしれない。幸か不幸か,団塊世代の引退と少子化で条件が変わるかもしれない。景気が良くなれば解決できるかもしれない。逆に,女性だろうか男性だろうか,いろいろな面を含めて魅力的な仕事に映らなければ,比率以前に人が集まらなくなってしまう危険性もある。

そしてもっと大切なのは,「文化上のコンテクスト」なのかもしれない。男らしい,女らしい,今までの「普通」の概念から解き放たれれば別に気にすることではなくなるのだろう。

悪玉のように男性を敵視していても,事態はあまり変わらない。むしろ,男性を新しい場所に誘導してあげれば,そこに女性がすっと入っていけるように思えるのだけど,どうだろう?

*1:本論では男女の比率がテーマだけれど,その他,男女別姓といったそれ以外の課題もある

今,平和の力が試されている

昨日は終戦の日。世界,そうでないとしても日本近辺,東アジアだけでも平和になっただろうか。残念ながらこの答えはNOという人が多いのではないだろうか。しかも,理由もひとつではないであろうというのがこれまた不思議。ある人は北朝鮮を挙げ,ある人は安倍総理を挙げる。米国やトランプ大統領を挙げる人もいるかもしれない。

戦争が一度起こってしまえばどうなるか。この時期になると,必ずと言ってよいほど戦争についての特集がされる。当時の状況は様々なので多様な在り方があり,それぞれの視点で紹介されている。起こると悲惨なことになるので戦争は必ず起こしてはならない,ということだろう。この点はコンセンサスがとれていると言えるのではないだろうか。


対話をする際の前提条件

だからこそ,外交や対話が大切だと言われている。先のコンセンサスが取れているというのは,ここでこれらをすっ飛ばして戦争をしたいと思っている人は日本にはいないだろう,ということである。

先の北朝鮮の例であれば,経済制裁などが行われている。この後,対話するという段階になるだろう。その時に覚悟しなければならないことがある。それが,自分は何を勝ち取るのか,そして相手に何を与えるのか,ということである。自分の意見を100%受け入れさせる交渉は別の手段(よく言われるのが軍事力であり,その他根回しもそうかもしれない)を併用しない限り実現しないと言われる。純粋な対話だけでは難しい部分もある。なぜなら,純粋な対話であれば,自国(自分)が得にならない話には誰だって頷かないからである。

もちろん,ベストな解はお互いのウィンウィンになるような解である。ただし,こじれていればいるほど,その解が求められない場合も多いだろう。だから,ウィンウィン案を提案できない限りは,対話をすることは,相手を部分的に認めるか,自分のものを手放すか,少なくともどちらかを覚悟しないといけないということだ。

北朝鮮については様々な圧力で北朝鮮の要求が全く通らない形で落ち着くのか,それとも交渉で部分的に要求が認められて落ち着くことになるのか,そこは僕には情報が足りないので分からない。戦争になるのは最悪である。戦争に至らずに解決してくれることを祈っている。


妥協なき交渉は暴力的

もうひとつ,国政の話も同じ。対話をするということは互いの意見を変化させる試みとほぼイコールであり,そこから生み出される第三案こそが,一歩一歩進んでいくことになると思う*1。しかしながら,ウィンウィンになるか別の圧力をかけるかしない限り,意見の変化を拒む純粋な意見や概念は,相まみえることができない。だから従うことしかできない。

従うことしかできないということは,受け入れることしかできないという意味で強制的であり,押し付けられるという意味で暴力的でさえある。純粋で代えがたいものであればあるほど。妥協なき概念はそういう性質であることは理解しておくべきだと思う。

 

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対話なき論争

最近気になっているのが,意見や概念が純粋すぎて,対話にならないことが多すぎるのではないかと思う。あまりに度が過ぎると自分に都合の良い情報しか目に入らなくなり,自分と違う意見を見落としてしまっているのではないだろうか。安倍政権も然り,最近言われるようなった「報道しない自由」もまた然りである。

また,ちょうど安倍政権が憲法改正を言い出し,戦前の雰囲気に近くなっているとか,きな臭くなっているとか,そういう声がある。そこでそう思っている人に聞いてみたいのが,あなたが安倍政権と対等な立場で対話できるとしたら,妥協させるか,自分が何を妥協するか。

自分が妥協しないのであれば,どうやって全面的に受け入れさせるのか。相手が全面的に悪いのだから…という論理であれば,ウィンウィン案を提案するか対話と別に圧力でもかけない限り,相手は交渉にのってこないだろう。たとえ悪でも相手の想いや反応を考えずに,正論である自分の意見が通ると思うのはあまりに自己中心的,おそらくそう思っている人の嫌いな,「正義を振りかざす」米国と同じなのではないだろうか。

結局口では対話というけれど,対話などする気はなく,暴力的にただ自分の意見を押し通したいだけなのではないだろうか。そして,最近起きている安倍政権で起きていることが別の筋からの圧力のように見えてならない*2。安倍政権を崩壊させれば問題は解決するのだろうか。

戦前の雰囲気でなければそれで良いし,そうであるならば転換してほしいと思っている。そこの根底にあるのが単なる反安倍なのか,それともそれを超えようとしているのか。何を批判しているのか。

今,平和の力が試されている。

*1:ちなみにこの第三案を出すことが「アウフヘーベン」(日本語だと「止揚」)と言えるだろう。意味は「あるものを否定しつつも、より高次の統一の段階で生かし保存すること」(デジタル大辞泉 https://dictionary.goo.ne.jp/jn/ より)である。

*2:そういう言質を取られる安倍政権が単純に被害者であるとも思わない

大企業か中小企業か?重視したいのは…

この前,知り合いが就職活動で大企業がいいか中小企業がいいか悩んでいた。ある人は大企業は厳しくブラックなところもあるし,個性を発揮しにくい部分があると回答していた。それは多分間違っていないと思う。

ブラックだとして指摘されているのは確かにいわゆる大企業が多い。だからといって,そうでない会社がブラックかどうかは分からない。そんなことを言ってしまったらそもそもこの議論は意味が無いんだけれど,企業の規模に関係なく,カテゴリーで見るのではなく,その会社と向かい合って見れば自ずと答えは出てくるはず。

この後の話は今までの話を踏まえて読んでほしいんだけど,どちらが良いかどうかは人によると思う。個性の発揮がしやすいのは一般的に中小企業なんだけれども,その反面教育制度が整っているのは大企業だったりする。大企業には育ててもらえる環境があるし,中小企業はいきなり最前線に立てる可能性がある。このあたりは分野や自分の価値観に従えばいいと思う。

最近,新国立競技場建設に携わっている若者が過労自殺してしまったというブラックなニュースが報道された。時間外200時間を把握せずという状況の末のよう。この一連のニュースで気になった報道があった。

kenplatz.nikkeibp.co.jp

採用活動が難航し,2016年度の新入社員がこの若者たったひとりだったのだという。このどこが気になったかというと,同期がいなかったという事実である。

この記事の中にも「相談や愚痴をこぼす相手がいなかったとすれば、本当にかわいそうなことをした」という会社の担当者の言葉が紹介されていた。いくら働き方改革が進もうが,ブラック企業を撲滅させたとしても,入社後に辛いことに出くわすのはほぼ間違いない。その時に会社で一番頼りになるのは同期なのだと思う。

僕が勤めている会社では今では数人をコンスタントに採用している。僕が就職したのは就職氷河期の頃で,残念がら同期がおらず,部署でも身近に相談できる人がいなかった*1。その半面,後輩や先輩たちには同期がいる。本当に羨ましい。哀れんでほしいわけではないけれど,そのことを僻んでみてもわかってもらえない。心が追い詰められ,あと一歩でダメになってしまうのではないかと思った瞬間は何回かあった。持っている人はその大切さが分からないのだろう。

タイトルの…はもうお分かりだろう。重視したいのは会社の規模ではない。同期の有無である。仮に会社を辞めて同期がいなくなったとしても,それまでに人間関係ができていれば緩くつながっていられる。ちょっと引いた視点で相談に乗ってもらえるようになるかもしれない。

それなら大企業が有利と思うかもしれないけれど,必ずしもそうではない。中小企業は一般的に同時に複数人を新たに雇うほど人が多くないけれど,それは他の人も同じなので,そもそも同期へのこだわりが薄い。だからあまり気にする必要はない。一番残念なのはそれなりの規模の会社なのに同期がいない場合。そういう会社はオススメしない。もっとも,新卒一括採用が終わったら同期という概念がなくなるだろうけれど。同期って言うよりも相談に乗れる相手がいるかどうかか。

最後に。僕が耐えられたのは,外の世界に触れたからというのが大きい。たまたまではあるものの,別の会社で働くという経験ができたので,今の会社だけが全てではないと思えることができた。これはレアケースだと思うけれど,会社の外のコミュニティ(もちろん趣味の世界のものでも)に参加をするという方法もある。直接的に相談できないかもしれないけれど,会社の枠を超えた新たな視点を得られるというメリットもある。会社が辛いときほど会社に目が行きがちだけれど,そうでない世界があることは覚えておきたい。

*1:と思い込んでいただけだったのかもしれないが

あけましておめでとうございます

あけましておめでとうございます。
今年も良い年になりますように。

さて,今年からブログのタイトルを変えました。
「どっとこぶろぐ2nd」から「どっとこうMOTTO」になりました。

ブログの立ち位置を決めかねていたのですが,結局は「書きたいときに書く」という当たり前でいて,それでいて自由な結論に至りました。

なのですが,今年はスピード重視ということで,基本的には,Twitterを中心に発信していきます。そこで書き足りないもの,漏らしたくないもの,そういうものをゆるくこのMOTTOの場で発信していきます。

もしよろしければ,フォローをお願いします。
@futagawakou

ちょっと短いですが,新年の決意ということで,お許しください。
今年もよろしくお願いします。